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静岡の旅行会社「千代田タクシー 観光事業部」小澤卓也のブログです。

桜花爛漫 ~The Way I Walk~

千代田タクシー観光事業部ブログ

久能山東照宮(国宝)のパーフェクトガイド(歴史編)

千代田タクシーでは国外や県外のお客様が静岡市内を観光する際の観光タクシーを数多く承っております。

その中でも一番人気と言っていいのが国宝の「久能山東照宮」です。

この久能山東照宮もパンフレットやウィキペディアに歴史的なことは書かれているものの、もう少し観光に面白いガイドがあってもいいんじゃないかと思い、このブログでパーフェクトにガイドしてみます。

見どころについては「久能山東照宮(世界遺産)のパーフェクトガイド(見どころ編)」をご覧ください。

 

 

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まずは久能山の歴史から

日本平からロープウェイによって到着する久能山ですが、その昔は日本平も久能山も平野で地続きであったと言われています。その後に地面の隆起によって日本平は標高307mになりましたが、それでも久能山とは一体の状態でした。やがて、長い年月の間に風雨の影響で浸食が起こり堅い部分だけが残り、日本平から分離して久能山(標高216m)となりました。

 

ここに最初にお寺が開かれたのは推古天皇の頃というので7世紀ころ。当時の国主だった久能忠仁(くのうただひと)が観音菩薩を安置して山を開いたことによって久能寺が建立されます。当時は都とも取引があったり名僧なども訪れたりする大寺院であったそうです。

それからしばらくは東海道屈指の寺院として栄えていましたが、鎌倉時代中期の嘉禄年間(1225年~1227年)に山麓の失火によって類焼しその面影をなくしてしまいます。

戦国時代へ…

その後、南北朝時代から室町時代にかけては、数々の戦いの際に天然の要害として久能寺は寺院城郭としての一面を持つようになります。

そこに目をつけたのが武田信玄で、久能山のことを知ると、久能寺を麓の北矢部地区(現 鉄舟寺)に移し、山上に城砦を設けて久能山城を築城しました。この城は相模の北条氏、遠江の徳川氏に対しての睨みをきかせる備えの拠点となるものでした。

今も境内には山本勘助が掘ったとされる勘助井戸(?)が現存しています。(久能山城築城は1568年。山本勘助は1561年亡くなっている…)

その武田氏も天正10年(1582年)に滅びると駿河一帯が徳川氏の領有するところとなったので久能山城もその支配下に入ることとなります。

家康もこの久能山が天然の要害であることに早くから着目し「久能山城は駿府城の本丸と常に思召す」と久能山の重要性を説いたと言われています。

家康が埋葬される

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元和2年(1616年)4月17日に徳川家康公が亡くなると、遺言によって遺体はその日のうちに久能山へと埋葬され、家康公の墓所となったことで久能山城は廃城となります。

その遺体は立ったまま西を向いて埋葬されているといい、まだ残る豊臣の勢力の睨みを利かせているという説もありますが、本当のところは久能山から西の直線上には、家康の生母が子授けの祈願をしたという鳳来寺(現 鳳来寺東照宮)と岡崎の大樹寺(家康生誕の地)があって、これは「太陽の道」を意識したものと言われている。一度死んだ家康が太陽が東から昇るがごとく神として蘇るための秘儀だとされています。

なぜ1年後に日光へ移ったのか?そもそもなぜ日光だったのか?

この久能山東照宮には西に向かう直線とは別の直線があります。

それは、東照宮から富士の山頂を通った延長線上。そして、江戸の街から真北の方角に向かう直線。この2本の直線の交点が日光なのです。これは久能山と日光は「富士(不死)の道」で結ばれている。つまり、亡くなった徳川家康公(東照大権現)が富士(不死)の山を越えて永遠の存在になるということを表しています。

さらに江戸から真北ということ。それは北極星の方向であるということです。北極星は不動の星ということで宇宙を司る神だと言われていました。家康公は神として蘇り、またそれは永遠の存在として世の中を司ろうとしたのです。

今でも陽明門の真上には毎晩北極星が輝いています。

 

家康公の遺体はいまどこに?

多くの人が「日光」と答えますが、それは本当でしょうか?

家康は「臨終となったら軀(遺体のこと)は久能へ納め、葬儀は増上寺にて申しつけ、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌も過ぎて以後、日光山に小さな堂を建て勧請せよ、八州の鎮守となるべく」という遺言を残しました。

 

大事なのは「日光へ勧請(かんじょう)せよ」ということです。「勧請」とは分祀(ぶんし)とか分霊であって、埋葬した遺体を掘り起こして運べとは言っていないのです。

そして、この勧請を指揮した天海がこんな歌を詠んでいます。

 

あればある なければないに駿河なる のなき神の宮遷しかな

太字にした「」の部分ですが、漢字にするのであれば「軀」がベストのようですが、それ(軀)の無い宮遷しということなんですね。ということは、遺体は今も久能に残っているということなんです。

 

日光東照宮と久能山東照宮の違い…とは?

江戸時代に日光と久能のそれぞれの東照宮はどのような感じだったのでしょう。

まず、日光ですが、一般の庶民でも参拝することができたそうです。一方の久能山は明治維新の頃まで大大名(トップクラスの大名)であっても参拝は許されなかったといわれています。

また、家康公の命日である4月17日に御例祭をやっているのは久能山東照宮。日光はその1か月ほど遅れた5月17日という月命日に春季例大祭をやっているのです。

その内容も、どちらも現在の徳川宗家にあたる方が装束を身に着けておまつりをされます。久能山では社殿にておまつりされた後に、家康公の墓所でもあるご神廟に行かれ参拝されます。一方、日光では本殿にておまつりはされますが、久能山と違い奥宮(墓所とされている場所)には参拝されません。

 

もう1つの違いに気が付きました?

久能山東照宮と日光東照宮で墓所とされている場所の呼び名が違うことに気が付きましたか?

久能山東照宮では「ご神廟」とよばれ、日光東照宮では「奥宮」と呼ばれているんです。これを、一般的な家庭に変換すると「お墓」と「仏壇」の関係なんです。

 

結局のところ

どちらにご遺体があるのかは、実際に掘り起こしをしてみないとわかりません。そこまでしないまでも現代の科学をもってすれば、解明するのは難しいことではないかもしれません。でも、どちらの東照宮も神域とされる境内での調査はOKしないでしょう。

ただ、ここまでお読みいただければ、遺体がどちらにあるかは何となく察することができそうです。

最後に…

天海僧正によって「宮遷し」が行われた17年後に、将軍家以外は参拝できない久能山東照宮に徳川家光(当時の将軍)が参拝した時の歌が残っています。

 

東より照らす光の、ここにありと、今日もうでする久能のみやしろ

徳川家光

 

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